秋田市(秋田県)Web
羽州街道
羽州街道は現在の福島、山形、秋田、青森4県を結び、全長約500kmに及ぶ近世の幹道。
奥州道中の桑折(現・福島県桑折町)から分かれて北西に進み、山形、湯沢、横手、久保田(現・秋田市)、弘前を経て、油川(現・青森市)で再び奥州道中と合流する。
秋田道とも呼ばれる羽州街道は江戸時代初期に整備され、58宿とも63宿とも数えられた。横手から油川までの羽州街道は、久保田までが現在の国道13号に、久保田以北は国道7号にほぼ重なっている。
慶長7年(1602)、秋田藩主となった佐竹義宣は、翌年、久保田の地に築城を開始。領内を流れる雄物川と米代川の舟運を重視した。二つの川に沿うように開かれた羽州街道は舟運と結びついて商品流通の道として発展した。
荒川区(東京都)Web
日光街道
徳川家康が江戸に入府して、最初に架けた橋が「千住大橋」である。江戸の北の玄関口となった橋の南側に位置する荒川区南千住に日光街道がある。
街道沿いには、松尾芭蕉の「奥の細道」への旅立ちの地として、素盞雄神社には碑が建てられており、地域では「奥の細道」に因んだ俳句大会も行われている。
あわら市(福井県)Web
準備中
伊勢市(三重県)Web
伊勢街道
江戸時代に整備された五街道のうち、東海道の四日市市日永から続く街道を伊勢街道と呼ぶ。
明治以降の交通手段の変移と道路整備の関係で主要道路ではなくなったが、沿道には現在も当時の面影を残す「へんばや商店」や「麻吉旅館」などがある。
板橋区(東京都)Web
中山道
日本橋を起点とした江戸時代の五街道のひとつで、起点から東海道に合流する草津宿までに67の宿場がおかれた。
皇女和宮降嫁の際にも京から江戸への大行列が通るなど、歴史的に重要な役割を果たした。
射水市(富山県)Web
旧北陸道
旧北陸道(北陸新道)は、江戸時代の初め、加賀藩の参勤交代や家臣の江戸往来のために整備された北陸路である。古代官道のルートを継承しており、北国街道と呼ばれることもある。
射水市小杉や大門水戸田は江戸時代の街道筋にあたっており、人や物資の往来で賑わいをみせていた。
魚津市(富山県)Web
写真北陸街道
かつては魚津城の城下町で、新川地域の政治、経済の中心都市として発展。北陸街道の周辺には屋敷や店が立ち並び、多くの人々で賑わっていた。
城下町として発展した魚津町は、江戸時代以降、越中東部における加賀藩の拠点として栄えた。
おおい町(福井県)Web
周山街道
名田庄地区には若狭と京を結ぶルートのひとつ周山街道が通り、魚介類や塩がこの道を通り運ばれていた。
室町中期から戦国期にかけて、将軍家の縁戚だった武田家の領国若狭に都から多くの公家が下向したことが知られるが、中でも、陰陽師の安倍晴明の直系子孫である土御門家は、応仁の乱を避けこの地に移り数代にわたり居住した。京と同名の社寺が残り、かつての屋敷跡一帯には小京都の風情が残る。
大田市(島根県)Web
石見銀山街道・温泉津沖泊道
世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産で、銀山と日本海に面する港を結ぶ全長12㎞と港及び港町、それに続く温泉町を含んでおり、街道の大半は国史跡となっている。
16世紀〜17世紀をピークとして、国内のみならず海外にも影響を与えた石見銀山の鉱石や銀を運んだ街道であり、江戸時代を通じて温泉津港から銀鉱山への物資輸送の街道でもあった。
大野市(福井県)Web
美濃街道
東海と北陸とを結ぶ重要な街道で、織田信長の家臣である金森長近が越前大野城を築いた戦国時代以降は、人や物資の往来が盛んに行われ、城下町の発展に寄与してきた。
大村市(長崎県)Web
長崎街道
長崎街道は江戸時代に大村藩の城下町であった大村市を南北に通っており、その南部、藩境近くの範囲が往時の街道の形状を良く残し歴史の道100選に選ばれている。
岡崎市(愛知県)Web
東海道
〈藤川宿〉
東海道の藤川宿は平成8年に歴史国道に選定された。松並木の保全や、棒鼻の復元、特産のむらさき麦の復活など、地域住民による宿場文化を活かしたまちづくりが進められている。
〈岡崎宿〉
城下町・宿場町の軍事防衛上、屈折の多い道として整備され、「岡崎の二十七曲り」と呼ばれた。現在も、数多くの社寺等の歴史的文化的資産をつないでおり、中心市街地を通る東海道として今も歩き継がれ、語り継がれている。
小田原市(神奈川県)Web
東海道
江戸を発って、東海道を西へ20里余。品川宿より数えて9番目の小田原宿は、かつて関八州に覇を唱えた後北条氏の城下町として重要な拠点であり、箱根関所を控えた宿場町としては、本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠屋95軒とその数は東海道最大級の規模を誇り、大いに賑わった。
今でも、小田原城跡に代表される史跡・名所のみならず、後北条氏時代に由来をもつ名産品づくりなど、往時のなりわい(生業)が数多く残る。
小浜市(福井県)Web
鯖街道(若狭街道)
若狭街道の起点である小浜は、海外や日本海沿岸各地とつながる「海の道」と、都とつながる「陸の道」の結節点として、人や物資、文化が集まる一大港湾都市であった。
地域には廻船問屋の邸宅・庭園や伝統的な町並が残り、日本海交易で栄えた湊町の面影を今に伝えている。
街道沿いには、東大寺二月堂にゆかりのお水送りを行う若狭神宮寺や若狭彦神社などの寺社が数多くあり、奈良や京とのつながりを示す歴史的な景観を形成している。
金沢市(石川県)Web
北国街道
古代・中世は北陸道、近世に入り北国街道と呼ばれるようになった。近世には、参勤交代のルートとしても使われ、金沢城下を横断する幹線道路として城下の発展に大きく寄与した。現代も交通・経済の要所として金沢市の発展を支えている。一方、藩政期以来の都市構造として守り受け継がれてきた歴史遺産でもあり、大半の区間で拡幅されものの城下の入口の象徴であった上・下両口の松門跡や森本の松並木(県史跡)、一里塚跡等は地区のシンボルとして語り継がれてきており、修景整備や由緒書などで後世に伝えていくべき道路と位置づけている。
上山市(山形県)Web
羽州街道
羽州街道の城下町・宿場町である上山市の街道・宿場町は、国土交通省 歴史国道 羽州街道 楢下宿、文化庁 歴史の道100選 羽州街道-金山峠、国指定文化財 史跡 羽州街道 楢下宿・金山峠等に選定・指定されている。
楢下宿の中央を流れる金山川にはふたつのアーチ式の石橋(眼鏡橋)が残されている。初代県令 三島通庸が建設を指示し、明治13年に「新橋」、明治15年に「覗橋」が完成した。
京都市(京都府)Web
愛宕街道
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている嵯峨鳥居本の町並みが往時の面影を伝えている。
京都の伝統行事五山の送り火のひとつである鳥居形送り火や化野念仏寺、愛宕念仏寺等など沿道には歴史的な神社・仏閣がある。
郡上市(岐阜県)Web
郡上街道(白川街道)
長良川、庄川沿いを通る街道で、「郡上街道」「白川街道」とも呼ばれている。
奈良時代の初めの養老年間、白山開山の祖・泰澄が創建した白山長滝寺(長滝白山神社)があり、鎌倉時代から江戸時代にわたり、東海方面からの登拝道として多くの人でにぎわいをみせた。
「太平洋と日本海を桜でつなごう」と旧国鉄バス車掌の故佐藤良二が名金線(名古屋-金沢)沿いに桜を植え続けたことが知られている。
下呂市(岐阜県)Web
東山道・飛騨支路(位山官道)
奈良〜平安時代にかけて、中央(律令政府)と各国府を結んだ官道「東山道」は美濃の方県駅で「飛騨支路」になり、武儀駅(関市)、加茂駅(七宗町)、下留駅(下呂市)、上留駅(下呂市)、石浦駅(高山市)が駅として延喜式(西暦927年制定)に定められている。
下呂市から高山市にまたがる「位山官道」は、宮都の建設のために都へ徴用された多くの飛騨の匠たちが往来した歴史と由緒ある古道で、所々に石畳の道が現存している。
桑折町(福島県)Web
奥州街道
江戸時代の五街道のひとつであり、町民によって奥州街道のまちづくりが進められ、街道の景観に配慮した案内板の設置や一里塚の復元などが取り組まれた。
郡山市(福島県)Web
奥州街道
慶長9年(1604)に徳川幕府によって、奥州街道が整備されたときに植えられた松並木の一部が、植え替えられながら沿道に残り当時の面影を伝えている。
数年前までは、見事な景観を形成していた松並木も、現在では、一部を除き、その姿を消しているので、草刈や小さな木の剪定をするなど松並木の保全活動を進めながら地域の活性化を目指すため、平成22年度に地域の団体が設立されている。
佐用町(兵庫県)Web
因幡街道
佐用町は、東西に出雲と大和を結ぶ出雲街道と、南北に吉備と因幡・但馬を結ぶ因幡街道が交差する交通の要衝で、古くから街道の宿場町として栄えてきた。
因幡街道の宿場町 平福では、川沿いに川屋敷が立ち並び貴重な歴史遺産となっている。土蔵や商家の町並みは、高瀬舟の往来により人や物資、文化の交流拠点として賑わいをみせた当時の面影を今に伝えている。
塩尻市(長野県)Web
中山道
塩尻市には中山道67宿のうち、5宿(塩尻、洗馬、本山、贄川、奈良井)があり、さらに漆工町として木曾平沢がある。
奈良井宿は昭和53年に宿場町として国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定され、木曾平沢は平成18年に全国で初めて「漆工町」として同選定を受けている。両地区とも町並み保存活動に取り組み、当時の面影を色濃く残している。
静岡市(静岡県)Web
東海道
静岡市には、江戸時代の五街道の最も重要な道である東海道の6つの宿場(蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子)があり、当時の建築物や史跡などを数多く残している。さらに、唯一昔と変わらない風景を眺めることができる薩埵峠と、国指定史跡に指定され、伊勢物語の舞台にもなった蔦の細道がある宇津ノ谷峠のふたつの峠がある。
1月から3月は、富士山の絶景と温暖な気候により、多くの人が街道ウォーキングに訪れる。
下田市(静岡県) Web
下田街道
三嶋大社を起点に天城峠を越えて下田に至る幹線街道。国道414号、国道136号にあたり、現在も主要な幹線道路である。
ハリスや吉田松陰などの歴史上の人物や、川端康成など多くの文豪たちが歩いた街道である。
墨田区(東京都)Web
鎌倉街道下ノ道
鎌倉と下総・上総を結ぶ道は、古くから「鎌倉街道下ノ道」と呼ばれていた。源頼朝が常陸国の佐竹氏討伐や奥州征伐に使用したとされる。
近世に入ると、江戸の中心部が明暦3年(1657)の振袖火事により焼失したため、災害対策の一環として武家屋敷が向島へと移動。同時に、竪川、大横川をはじめとして、河川の掘削や南北割下水、碁盤目状の道路整備が行われた。
高岡市(富山県) Web
井波道
井波道は、高岡城下の中心部から庄川の左岸に沿って高岡の開祖前田利長の菩提寺である国宝瑞龍寺、寺町、さらに神主町を経て井波へと続いていた。
国宝瑞龍寺から神主町、新高岡駅付近までは、城下町建設時に整備された庄方用水が街道沿いを流れるなど、往時の風情を残している。
高浜町(福井県)Web
丹後街道
京都の丹後と接する若狭最西端の町・高浜は国境の要衝で、戦国期には若狭国守護武田氏により高浜城が築かれた。
江戸時代は、小浜藩酒井家の領国となって町奉行が置かれ、大飯郡の年貢米を集める蔵屋敷がつくられた。
近世の高浜は旧城下を中心とした町方と漁港の浦方に分けられ、海上交通と丹後街道の宿場町として発展。今も、旧丹後街道に沿って古い町並が残されている。
高山市(岐阜県) Web
飛騨高山の歴史街道
1586年に飛騨国主となった金森長近は城下町形成と同時に街道整備を行って東西南北の街道を城下町に引き込み、高山城下は流通経済、政治、文化、交通の要所としての役割を果たした。現在も市中に歴史的景観・環境として残り続け、街道沿いの農山村集落を中心に街道の保存活用が取り組まれている。
智頭町(鳥取県)Web
因幡街道
鳥取城下を出発して用瀬を経て智頭町に入り、志戸坂峠を越えて岡山県西粟倉村を経由、兵庫県姫路市に至る道で智頭往来とも呼ばれている。智頭往来の歴史は古く、平安時代にはすでに官道として道が通っており、畿内と因幡地方を結ぶ重要な道として、江戸時代には鳥取池田藩の参勤交代に使われるなど、上方への主要道として重要な役割を担ってきた。
智頭宿は、鳥取藩初代藩主池田光仲侯の参勤交代の宿泊地となってより、町並みも整い宿場町として繁盛した。町内には往時の繁栄の名残を伝える道中安全を願った大日如来や地蔵など近世の石造物が数多く残されている。
智頭町内には約21kmにわたる古道が現存しており、そのうち智頭町山郷地区に残る志戸坂峠を中心とした約2.5kmが国史跡に指定されている。
中央区(東京都)Web
五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)
徳川家康は政治・軍事上の必要から、江戸幕府の成立と同時にいち早く江戸と全国を結ぶ道路網の整備に着手し、特に重要な街道として「五街道」に力を入れた。日本橋は五街道の起点であり、日本の中心・江戸繁栄の象徴となった。橋の中央には「日本国道路元標」、橋の北詰には「東京市道路元標」が保存されており、近代に入っても道路の起点となっている。
現在は日本橋と交差する高架高速道路が架かり、橋の美観や風格が損なわれている。かつての「陽光がふりそそぐ日本橋」をよみがえらせるため、日本橋に深い愛情を持った町会、企業等によって、橋洗いなどの保全活動やPR活動が活発に行われている。
千代田区(東京都)Web
甲州街道
日本橋を起点とした五街道のうちのひとつで、日本橋から千代田区の桜田門、半蔵門の皇居周辺から四谷見附を経て内藤新宿、さらに八王子や甲府、さらに中山道に合流する信濃国の下諏訪宿まで38の宿場がおかれた。現在も国道20号線としてその大部分が継承されている。
敦賀市(福井県)Web
木ノ芽古道
平安初期に開かれ、明治初期まで千年以上にわたって敦賀と福井方面を結ぶ幹線として使われた歴史的古道で、後世に名を残した偉人達がたどった道である。
平安時代には紫式部、鎌倉時代以降は道元、親鸞、蓮如などが往来した。南北朝時代には新田義貞の軍勢が冬の峠で凍え、戦国時代には織田・豊臣軍と一向一揆勢との戦いの舞台となった。江戸時代には「おくのほそ道」の旅で松尾芭蕉が通り、幕末の水戸浪士一行は京を目指して雪の木ノ芽峠を越えた。 文化庁選定「歴史の道百選」(木ノ芽峠)に選定されている。
中部北陸自然歩道として整備されており、身近に歴史を感じることができる。
鳥取市(鳥取県)Web
因幡街道
因幡街道は江戸時代に整備された脇街道の一つで、播磨国姫路(兵庫県姫路市)と因幡国鳥取(鳥取県鳥取市)を結んでいる。智頭往来―志戸坂峠越(鳥取県智頭町―岡山県西粟倉村)が「歴史の道百選」に選定されており、沿線には数多くの史跡や宿場町の町並みが残されている。また、近世鳥取城下に引き込まれた街道(若桜街道・智頭街道・鹿野街道)が今も商店街としてその名を伝え、旧街道を通じた鳥取市の中心市街地と周辺との交流が進められている。
砺波市(富山県)Web
砺波・出町の道
砺波市は富山県西部の砺波平野に位置し、平野部は庄川のつくった沖積扇状地である。
「出町」とは周辺の村から出てつくられた町という意味で、近世から明治初年にかけては俗称であった。「出町」は明治22年の町村制以降周辺村落を含めた行政村としての名称になった。
砺波地域における中世の町々はもともとは山麓にあった。庄川の扇状地が拓かれたのは15、6世紀頃のこととされ、慶安2年(1649)に出町(杉木新町)の町立が行われて以後福野町・福光新町・福岡町・津沢町などの町々が4〜6キロの等間隔でつくられていった。「出町」の場所は正保3年(1646)の国絵図では戸出と城端を結ぶ道筋にある。
承応2年(1653)南町に作食蔵が建てられ、寛文4年(1664)には藩主が砺波平野へ鷹狩に来る際の休憩所として御旅屋(おたや)が建てられた。市指定文化財となっている御旅屋の井戸はその御膳水として掘られたもので、扇奥部の地下水を汲む唯一の井戸である。
寛文6年(1666)作食蔵敷地内に砺波郡の十村(大庄屋)たちが毎月一度寄合を開くための十村寄合所が置かれ、後に当町が砺波郡の行政の中心として発展する布石となった。
富山市(富山県)Web
北陸街道
加賀藩の参勤交代の重要な往還路であり、東岩瀬から水橋に至る道を「浜街道」と呼んだ。岩瀬地区は商業都市であるとともに加賀藩における枢要な港で、北前船による北海道交易の重要な拠点であった。
岩瀬大町・新川町通りには、江戸時代・明治時代にかけて北前船で活躍した豪商馬場家・米田家、平成6年に国の重要文化財に指定された「森家」などがあり、繁栄した宿場・街道の面影を今に残している。
中津川市(岐阜県)Web
中山道
中津川市の中山道沿いには3つの宿場が設けられ、街道を行き来する人の荷物を運び宿を提供し、当地方の経済拠点として発展してきた。文豪「島崎藤村」のふるさと馬籠宿は、木曽11宿の最南端、美濃との国境にあり、中山道の両脇に軒を連ねる集落の面影は江戸時代そのままである。歌舞伎や文楽など様々な芸術や文化に触れてきた土地柄で、名物の栗きんとんなど和菓子の文化も街道によって発展してきた。
南木曽町(長野県)Web
中山道
五街道のひとつ中山道は、参勤交代の大名や日光例幣使が通る政治の道であり、江戸や京大坂の文物が行き交う文化の道であった。宿場と街道という近世の景観のほとんどが失われていく中、妻籠宿を中心とする中山道は国道や鉄道という近代交通網から外れたことで、その景観がほぼ残された。
南木曽町内の中山道(歴史の道)は、昭和53年度から56年度にかけて全国で最初に整備事業が実施され、昭和62年には全長約20キロの内8.5キロが国史跡に指定された。江戸時代の風情漂う道や町並は、かつての賑やかな往来を現在に伝える歴史街道として人々の人気を集めている。
奈良市(奈良県)Web
山の辺の道
山の辺の道は、三輪山の山麓から現在の天理市石上にある「ふるの社」を経て、奈良の地からさらに山背を通り日本海へと通じる古代の重要な幹線道路だった。
天理から奈良への道筋は、「記紀」・「万葉集」に記された地名や物語を伝えるロマンの道。「青垣山うるわし倭」と詠まれ奈良盆地を実感し得る金剛葛城・二上山や信貴生駒の峰を西に展望し、東の山裾の静けさとあいまった四季それぞれの心を癒す光景が広がっている。これに多くの遺跡地と社寺が合奏して逍遥の歴史街道となっている。
南砺市(富山県)Web
五箇山街道
旧五箇山街道は、五箇山地方と砺波平野の最南端の南砺市城端地域を結んでいた峠道。何本かの峠道の中で最も利用者が多かったのは朴峠道で、上梨集落や下梨集落から相倉集落(合掌造り集落世界遺産)、鹿熊峠、梨谷集落、朴峠、人食い谷、唐木峠、若杉集落を経て城端に至っていた。
現在は中部北陸自然歩道「朴峠牛方をしのぶ石畳の道(12.2㎞)」として整備されている。
新潟市(新潟県)Web
北国街道
新潟市から上越市(新潟県)を通り、軽井沢町(長野県)までを結ぶ古くからの重要な街道である。新潟市西蒲区内の街道沿いには、大河ドラマ「天地人」ゆかりの天神山城址をはじめ、菖蒲塚古墳、芭蕉の句碑など歴史の深さをしのばせる史跡が数多く残るとともに、黒塀や石垣など昔の町並みの面影が伝えられている。
西粟倉村(岡山県)Web
智頭往来(因幡街道)志戸坂峠
岡山県境にある志戸坂峠は、かつて鳥取城下と姫路城下を結び因幡地方から大阪・京都へ至る主要街道となっていた。古くからの街道で、承徳3年(1099)には因幡の国守である平時範が任国に赴任する時にこの志戸坂峠で行なわれた「境迎へ」の儀式が「時範記」に記録されている。平成8年には文化庁選定「歴史の道百選」に選定されて西粟倉村・智頭町側とも整備されている。
日光市(栃木県)Web
日光街道
国道119号の「日光街道」は、世界遺産に代表される「日光の社寺」へと続く街道。日光街道は、国内で唯一特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受ける「杉並木」で有名。また、日光街道沿線及びその周辺では、町並の景観形成や杉並木の美化運動を行っている。さらに、地域住民や関係機関、行政との間で日光ブランドの再構築を目指し、イベントおよびPR活動など協働でまちづくりを進めている。
萩市(山口県)Web
萩往還
平成元年に国指定史跡に指定され、平成8年には歴史の道100選に選定された。また、平成19年には国土交通省の提唱する日本風景街道に登録されるなど、往時の姿を色濃く残している。
豊かな自然や歴史を体感できる街道で、景観保全活動やボランティアガイドの活動などの地域活動も盛んに行われている。
萩往還を活用したウォーキングイベントも盛んで、沿線には2か所の道の駅があってドライブ客も憩い楽しめる環境となっている。
箱根町(神奈川県)Web
東海道
箱根宿は、小田原宿から50軒、三島宿から50軒を移して、元和4年(1618)に新たに開かれた宿場町。奈良時代の開湯とされる湯治場や箱根権現の門前町としても繁栄した。
元和5年(1619)には箱根関所が設けられ、江戸防衛のための重要な役割を担った。
険しい箱根山を越える坂道は「箱根八里」と呼ばれ、箱根宿をはさんで小田原側の東坂と三島側の西坂があった。 「箱根八里」東坂には、往時を偲ばせる石畳道や茶屋が今も残る。
浜松市(静岡県)Web
姫街道(本坂通)
姫街道(本坂通)は、古代には官道として、戦国時代は軍事用の道として、近世には東海道の脇往還として人々の活発な往来があった歴史的街道である。
街道の周辺には大規模な古墳や遺跡が数多く見られるほか、近世の街道を示す松並木、一里塚、常夜燈、石畳なども残り、平成8年には文化庁の「歴史の道百選」にも選ばれている。
飛騨市(岐阜県)Web
越中東街道
文禄(1592〜)、慶長(1596)にかけて、主要路として、越中〜飛騨〜信州まで約200キロの道のりで人々が徒歩や牛馬で峠を越えて往来していた。寛永16年(1639)から加賀藩の街道となる。
富山湾で取れる鰤は数々の関所や危険な谷などを通過して飛騨・信州へ届けられ、人々の貴重なご馳走となった。
氷見市(富山県)Web
臼ヶ峰往来
富山県氷見市と石川県宝達志水町を結ぶ道で、古代・中世においては越中と能登を結ぶ主要な政治・経済の道で、江戸時代には加賀藩が定めた越中と能登をつなぐ街道のひとつとして整備され、「御上使往来」などとして利用されており、平成8年に文化庁の「歴史の道百選」に選定された。
姫路市(兵庫県)Web
山陽道(西国街道)
山陽道は五畿七道のひとつで本州西部の瀬戸内海側の行政区分、及び同所を通る幹線道路をいう。江戸時代には、西国街道や西国道とも呼ばれた。
奈良時代、播磨国の国府が置かれた地に、池田輝政によって姫路藩が成立し姫路はその城下町として整備された。市内には城下町の町割りや街道の町並が残る。
福島市(福島県)Web
奥州街道
街道沿いには歴史的な建物や史跡が点在しており、福島市中心部では、かつて城下町を通っていた奥州街道の遺産・文化を活用した賑わいと回遊性を生み出すための取り組みがなされている。
福島市松川町には全国的にも貴重なアーチ型の石橋「めがね橋」が残る。奥州街道の遺産であるこの橋を観光資源・歴史資源として夜間にライトアップするなど、地元では街道を通したまちづくり活動が活発に行われている。
袋井市(静岡県)Web
東海道
旧東海道袋井宿は現在の袋井市の中心部にあたる。東海道53次の宿場では、江戸日本橋から数えても京から数えても27番目で中間点にあたる。他の宿場に遅れて、元和2年(1616)頃に整備された。
周辺には、法多山尊永寺や医王山油山寺、萬松山可睡斎の遠州三山をはじめ歴史ある寺社があり、それらの門前町として栄えた。
藤枝市(静岡県)Web
東海道
奈良時代以来伝えられる東海道は関東と関西を結ぶ日本の主要幹線であり、現在の国道1号線と重なる部分も多い。長い間人の往来が絶えなかったため、名勝をはじめとして街道にまつわる史跡や伝説なども多く伝わっている。東海道は単なる道ではなく、人が往来することでつくられた文化的事象を伴う“街道”の典型例といえる。
藤岡市(群馬県)Web
中山道
江戸から武州・上州・信州を経て京へ通じる中山道は、古代・中世の東山道を江戸時代に整備して五街道のひとつとしたもので後に中仙道とも書いた。武州側から神流川を渡って上州新町宿(高崎市新町)を通り烏川右岸を立石新田(藤岡市)から中島(藤岡市)に抜けて、烏川を渡り岩鼻(高崎市)に着く。
富士宮市(静岡県)Web
中道往還
富士宮市は富士氏が大宮司を務める富士山本宮浅間大社の門前町として栄えた。
甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ中道往還の宿場町としての機能もあり、戦国時代には楽市が開かれていた。
古来より富士山や富士信仰との関わりが深く、市内には浅間大社や白糸ノ滝など世界遺産富士山の構成資産がある。
富士吉田市(山梨県)Web
富士山吉田口登山道
富士山で唯一ふもとから山頂まで徒歩で登ることができる登山道であり、富士山信仰が隆盛を誇った当時の面影を今も残す古道。2013年に富士山が世界文化遺産登録された際には、この吉田口登山道も構成資産として登録された。
麓から富士山五合目までにかけての登山道は木々の中にあり、五合目以上に比べ登りやすい道となっているため、登山初心者でも気軽に歴史を感じながら登山を楽しむことができる。また、この登山道と同じく世界文化遺産の構成資産である北口本宮冨士浅間神社には登山道の起点となる登山門がある。
防府市(山口県)Web
萩往還
古くは、防府天満宮(松崎天神)を中心とした門前町の宮市地区、三田尻港・中関港を中心とした港町の三田尻地区・中関地区として栄えてきた。門前町の宮市地区は山陽道と萩往還の結節点にあたる。
かつて、東の赤穂、西の三田尻と称されるほど製塩業で栄えた。
防府市内の萩往還関連史跡として、宮市本陣兄部家、三田尻御茶屋旧構内、三田尻御舟倉跡、住吉神社石造燈台がある。
松江市(島根県)Web
松江美保関往還
松江美保関往還は、松江市街から本庄町を経由し、美保関に至る街道である。北前船の主要な風待ち港であった美保関は、全国から多くの船が出入りし、美保神社への参拝客や船乗りたちで非常に賑わった。
往時の雰囲気を現在もよく伝えているのが、美保神社の門前から佛谷寺まで続く「青石畳通り」である。青石畳通りは平成18年度に、歴史や文化を今に伝える中国地方の街道として、「夢街道ルネサンス認定地区」にも認定されている。
松山市(愛媛県)Web
土佐街道
江戸時代から土佐街道と呼ばれた主要道で歴史の道100選に選定されており、沿道には常夜灯や茶屋跡・大師堂・遍路墓などが残されて、往時の街道の形状をよく伝えている。
四国八十八箇所霊場を巡る「遍路道」とほぼ同じ道筋であり、四国遍路については、2015年「四国遍路」〜回遊型巡礼路と独自の巡礼文化〜として、文化庁「日本遺産」に選定された。
三島市(静岡県)Web
東海道
三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として賑わいをみせた。
東海道に宿駅伝馬制度が定められると、江戸日本橋から数えて11番目の宿場となった。さらに、参勤交代制度が制定され諸大名の往来が増えると三島宿は江戸防衛の役割を担うこととなる。
東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道、甲州道の交差する三島宿は、文化や産業の交流地点ともなっていた。
みなかみ町(群馬県)Web
三国街道
三国街道の宿場町のひとつである須川宿周辺は、旧新治村が「たくみの里」としてむらづくりに取り組み、たくみの家がそば打ちや工芸等の手づくり体験を提供している。須川宿の通りは歴史国道として整備され、家並みや道路沿いを流れる用水は当時の面影を残している。景観への取り組みも積極的に取り組まれており、花壇や用水の維持管理は地域住民の手で行われているほか、景観地区として建物の色彩等景観に配慮した地域づくりが進められている。
美濃加茂市(岐阜県)Web
中山道
江戸時代に整備された五街道のひとつで、東海道と並ぶ江戸と京を結ぶ重要幹線であり、五街道の中で最も長い道のりで69の宿場があった。
中山道三大難所のひとつ「太田の渡し」があった太田宿は、江戸日本橋から数えて51番目の宿場。当初は大久保長安が奉行として治め、後に尾張藩が支配した。当時の面影を残す本陣門や脇本陣が残されている。
美浜町(福井県)Web
丹後街道
越前国敦賀津から若狭国を横断して丹後国田辺から宮津へ通じた街道。
美浜町佐柿は、古くから若狭国の交通の要衝として重要視され、山城である国吉城が築かれた。その城下町として造られた佐柿は江戸時代には熊川などとともに宿場町として機能。今も往時の歴史的な町並が残されている。
美馬市(徳島県)Web
撫養街道
美馬市脇町は脇城の城下町として成立し、藍の集散地として発展してきた。
吉野川の水運とともに、海運の玄関口だった撫養へと続く撫養街道の役割は非常に大きなものであった。
街道の周辺には当時の白漆喰壁にうだつや格子戸のある藍商人達の家が残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
三好市(徳島県)Web
撫養街道
江戸時代に整備された阿波五街道のひとつである。
三好市池田町は葉タバコ産業によって栄えた町であるが、商品等の流通は陸路(伊予街道、撫養街道)と水路によって行われていた。道筋は県道などと重なる部分もあるが、現在も昔の形状をよく残しており生活道の一部として利用されている。
山口市(山口県)Web
萩往還
萩市、山口市、防府市をつなぐ萩往還は、慶長9年(1604)毛利氏の萩城築城後、江戸への参勤交代のための「御成道」として開かれた。
幕末の一時期、藩庁が山口に移されたことにより、多くの志士たちが往来し、薩長同盟などの天下の大事を語り合ったことから、山口は「明治維新の策源地」となった。市内の各所に明治維新ゆかりの史跡が残る。
梼原町(高知県)Web
梼原街道(脱藩の道)
坂本龍馬は澤村惣之丞とともに、文久2年(1862)3月24日高知を出奔し25日に梼原に到着。その夜、梼原の勤王の志士那須俊平・信吾父子の道案内により予土県境・韮が峠を越えて伊予の国(愛媛)に脱藩した。その他にも吉村虎太郎をはじめ10名の志士が梼原から脱藩している。
日本の道100選や歴史の道100選にも選定されており、この街道を活用して地域の活性化が図られている。
横浜市(神奈川県)Web
東海道
中世、鎌倉幕府の交易港として六浦湊(金沢区)や神奈川湊(神奈川区)が発展。六浦荘金沢には北条実時によって金沢文庫と称名寺が建立された。関ヶ原の戦いに向かう徳川家康は軍船に乗船して金沢から出向したとされる。
慶長6年(1601)、徳川幕府により東海道宿駅伝馬の制が定められ、神奈川宿、保土ヶ谷宿がつくられ、慶長9年(1604)には戸塚宿がつくられた。
横浜市には約28㎞にわたって旧東海道が通っており、三つの宿場をはじめさまざまな史跡・名所がある。
若狭町(福井県)Web
鯖街道(若狭街道)
いくつものルートがある鯖街道のうち、最大の物流量を誇った若狭街道沿いの熊川宿は近世中期以降最大の京への中継地となり、荷を運ぶ馬借や背負で大いに賑わった。
街道沿いには、多くの伝統的建造物や道標、街道松などが点在するほか、六斎念仏など京都伝来の民俗行事が守り伝えられている。
若桜町(鳥取県)Web
若桜街道
若桜街道は、鳥取城の薬研堀の若桜口惣門を出て、八頭郡八頭町を通り、若桜町の中心街、若桜宿に至る江戸時代の街道であり、八東往来や若桜往来とも呼ばれた。
伊勢神宮に参詣する人々が多く往来したとされ、沿道には伊勢道と記した道標が残されている。
輪島市(石川県)Web
奥能登絶景海道
日本海に突き出た能登半島の最先端に位置する珠洲市宝立町から輪島市町野町曽々木に至る約50kmの海岸線を通る道路で、断崖地形からなる勇壮な外浦地区と、これとは対照的に半島の陰に隠れ波穏やかな内浦地区を通っている。
現在は道路改良も進み、付近の垂水の滝や見附島等の観光名所へのアクセスも向上して多くの観光客が訪れて交流促進や地域の活性化に役立っている。